これから出てくる赤塚城の写真は、春夏秋冬・カメラも異なるさまざまな写真ですヾ(・ε・。)


都営三田線・西高島平駅から徒歩20分。または東武東上線・成増駅or赤塚駅から徒歩30分の場所にある、板橋区の赤塚城!埼玉県との境にあるこの城には、東京23区にも関わらず、竪堀や横堀が楽しめる土の城です。

郷土資料館でGETしたこちらの史料

白子原合戦の時を想像したイラストだそうですしかも香川元太郎先生監修は、西ケ谷先生!和光と成増の間にあるチョロチョロとした川が白子川です。下の川は県境の荒川

縄張図は、西股総生先生と萩原さちこさん著の『山城へGO!』(2014、学研パブリッシング)を参考にしました

そのため…縄張図はサイト上に掲載できませんが、おすすめの本です
 
現在と、昭和30年の古写真を比べてみましょう!
この古写真は、郷土資料館内にもあるのですが、梅祭りの時には一の曲輪にボード上に展示されていました。撮影・掲載許可済。

二の曲輪と浄蓮寺(=赤塚城の出城)の間にある(天然の)堀。鎌倉古道に繋がる古い道である。

天然の空堀ですね。この道を辿って西へいくと道祖神さんがありました!

昔からある道だという証だそうです。(2019年4月に新築ができてなくなってしまいました)

<三ノ曲輪>

三の曲輪と横堀
民家の畑になっていて立ち入りは禁止ですが、隙間からのぞきこみ…ww
横堀が残っています …というのは少し前の話で。

2019年に都が買い取ったそうで、都立公園の一部になりました。曲輪内は、植物を大切にしている団体さんとの共存のため、これからどうするか考えていかねばなりませんが、三ノ曲輪の横堀だけはキレイにしてくださいました!
とてもとても見事一週間ごとに観察しているけど、徐々に下草がのびてきているから、夏になる前に早めの訪問をおすすめします

二の曲輪と三の曲輪の間の曲輪

この曲輪には名前がありませんが、馬出しに見えてしまう

<二ノ曲輪>

二の曲輪の切岸も立派二ノ曲輪と三ノ曲輪の間の谷道を歩いて行くと堪能できます!三の曲輪の堀切も立派です!

名残が見られる道がいいねε=ヾ(*・∀・)/

ニの曲輪

梅がいっぱい植えられておりました!!!3月最初の土日には赤塚梅まつりも行なわれますのこんな感じになる!

二の曲輪から北へ行くと…

<一ノ曲輪>

一の曲輪と二の曲輪の間の空堀
削られてしまっているけど、空堀があったそうです。
さて、国土地理院のサイトで昔の上空写真を確認してみましょ!
よくわかりませんね……。
発掘調査報告書によると、地域の住民から「昭和のはじめには空堀があったけど、畑として使われ、その時に埋められた」という証言があったようですね。

一の曲輪と赤塚城碑
広いっ!
2019年には、ご覧の通り城址碑の周辺がキレイになりました
一の曲輪、池(水堀跡)と反対にあたる西側には、竪堀が三本走っています
一の曲輪の竪堀
まぁ、薮がすごいね2本はフェンス下にあるから見にくいかな。冬はよく見えます!

一の曲輪とニの曲輪の北側、現在は池のある公園になっている場所にはかつて水堀がありました。
池まで来たら郷土資料館もいっちゃいましょ!
お祭りの日には色々なイベントをやっていますよ୧꒰*´꒳`*꒱૭✧
ちなみに、2018年より発売が開始した「武蔵千葉氏」の家紋いり栴檀ストラップが購入できるのもここだけw
赤塚城に来たら足を伸ばして出城?出曲輪?まで行きましょう
【浄蓮寺】
地元民は年末年始はここに来ますすす〜!
「赤塚城二の丸」って立派な石碑があるんだけど、城址公園全体が一の曲輪なわけではないので、出城か出郭として考えていいと思います。日本で3番目に大きな大仏、「東京大仏」!
赤塚城の近くには滝があって、清い水が流れているの。だから、蕎麦作りに向いている環境で、「大仏蕎麦」がご当地グルメになっています!
さて、国土地理院ではこんな画像も見られます。

中央左にあるボコボコが赤塚城。そして、右手にはもう一つの城(砦?)、「沖山の塁」が見えています!みごとな舌状台地ですね。

沖山の塁▶︎ジャンプ


赤塚城

住所…東京都板橋区赤塚五丁目
遺構…土塁、空堀、(竪堀、横堀)
メモ…
鎌倉時代。
「赤塚」の地名が初見されたのは元弘3年(1333)頃。赤塚郷は北条得宗家の領有地だったそうです。永徳元年(1381)には京都の鹿王院へと赤塚郷を寄進しています。
室町時代。
康正2年(1456)になると下総千葉氏の内紛から千葉実胤、自胤兄弟が入部。赤塚郷は兵糧料地として千葉氏が預かります。武蔵千葉氏!
戦国期。
小田原北条氏の作成した『小田原衆所領役帳』には千葉氏の所領と記載があったそうです。

(参考『四葉地区遺跡』2001,板橋区立郷土資料館)


『山城へGO!』によると赤塚城は、「1546年に千葉自胤が築城。千葉氏は下総の名門だったが、足利成氏と上杉氏との抗争・享徳の乱に巻き込まれ、馬加康胤によって下総を追われ太田道灌を頼って武蔵国へと逃れた。やがて後北条氏の傘下に入って赤塚城を築いたとされるが、廃城の時期は不明」とのこと。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA