※これから出てくる赤塚城の写真は、春夏秋冬・カメラも異なるさまざまな写真ですヾ(・ε・。)
23区内なのに横堀や竪堀が楽しめる戦国時代の城
都営三田線・西高島平駅から徒歩20分。または東武東上線・成増駅or赤塚駅から徒歩30分の場所にある、板橋区の赤塚城! 埼玉県との境にあるこの城には、東京23区にも関わらず、竪堀や横堀が楽しめる土の城です。
郷土資料館でGETしたこちらの史料 現在はもう配ってないみたい…
下の川は現在の県境の荒川。川のそばでワラワラしている場所は、徳丸ヶ原のあたりでしょうか。左上にある砦が沖山の塁。そして右上が今回ご紹介する主人公、赤塚城です。
ちなみに縄張図は、西股総生先生と萩原さちこさん著の『山城へGO!』(2014、学研パブリッシング)を参考に巡っています。縄張図はサイト上に掲載できませんが、とてもおすすめの本です
赤塚城をめぐってみよう! Let’s go〜
一方反対、南側は谷地形が入りこみ天然の空堀に。この道を辿って西へいくと道祖神さんが。昔からある道の証ですね。
<三ノ曲輪>
横堀が残っています …というのは少し前の話で。
2019年に都が買い取ったそうで、都立公園の一部になりました。曲輪内は、植物を大切にしている団体さんとの共存のため、これからどうするか考えていかねばなりませんが、三ノ曲輪の横堀だけはキレイにしてくださいました!
とてもとても見事度々訪れて観察しているけど、徐々に下草がのびてきているから、夏になる前に早めの訪問をおすすめします。
<二ノ曲輪>
二の曲輪の切岸も立派二ノ曲輪と三ノ曲輪の間の谷道を歩いて行くと堪能できます! 三の曲輪の堀切も立派です!
ニの曲輪
ここには梅がいっぱい植えられており、3月最初の土日には赤塚梅まつりも行なわれます右→の写真のような、こんな感じになる!
二の曲輪から北へ進むと…
<一ノ曲輪>
一の曲輪と赤塚城碑
一の曲輪をめぐる横堀も、藪藪で何も見えない状態だったのですが、これも綺麗に伐採されて横堀が確認できるようになりました!!
一の曲輪とニの曲輪の北側、現在は池のある公園になっている場所にはかつて水堀がありました。
中央左にあるボコボコが赤塚城。そして、右手にはもう一つの城(砦?)、「沖山の塁」が見えています!みごとな舌状台地ですね。
沖山の塁▶︎ジャンプ
赤塚城
住所…東京都板橋区赤塚五丁目
遺構…土塁、空堀、(竪堀、横堀)
メモ…
鎌倉時代。
「赤塚」の地名が初見されたのは元弘3年(1333)頃。赤塚郷は北条得宗家の領有地だったそうです。永徳元年(1381)には京都の鹿王院へと赤塚郷を寄進しています。
室町時代。
康正2年(1456)になると下総千葉氏の内紛から千葉実胤、自胤兄弟が入部。赤塚郷は兵糧料地として千葉氏が預かります。武蔵千葉氏!
戦国期。
小田原北条氏の作成した『小田原衆所領役帳』には千葉氏の所領と記載があったそうです。
(参考『四葉地区遺跡』2001,板橋区立郷土資料館)
『山城へGO!』によると赤塚城は、「1546年に千葉自胤が築城。千葉氏は下総の名門だったが、足利成氏と上杉氏との抗争・享徳の乱に巻き込まれ、馬加康胤によって下総を追われ太田道灌を頼って武蔵国へと逃れた。やがて後北条氏の傘下に入って赤塚城を築いたとされるが、廃城の時期は不明」とのこと。