前橋城の歴史
前橋城といえば、小田原攻めでも北方部隊によってわりと最初の方に落とされた(4月頃)城というのが印象強い。確か前に城郭検定1級か準1級で、落城した順番が問題にでて必死に覚えた記憶が蘇ります(笑)
調べてみると、城は15世紀からあったとかなかったとか。家康の関東入封後は平岩親吉が城主となり、江戸時代は酒井家(その後姫路城へ転封)、18世紀の半ばには姫路城からやってきた松平家が城主を勤めたという。
…あの美麗な姫路城から前橋城へ、か。私達関東民は馴染み深い土の城だけど、もしかしたら松平さんはガッカリしたかもしれないと勝手に想像してしまう。
転封から20年後には前橋城を廃し川越城へ移ったという。理由は利根川の被害みたいですが、引っ越してきて早々かかわいそうな松平さん😭
廃城後は川越の陣屋支配だったみたいだけど、面白いのは文久3年(1867)に城が再興されている点。珍しい!けれども、すぐに大政奉還しちゃうから切ないです。県庁辺りの土塁は、この時に盛られたものと教えていただきました。
◎まとめると今回大事なのは、松平さんが川越城に移る際に破却しているという点ですかね。そして再興時に城を作り直したという部分になるかなと思います。
現地説明会に行ってきました!
お話を聞いたところ、該当の遺構は「記録で櫓門があったことはわかっていたけど、現物は見つからなかった『幻の存在』」らしい。幕府の大老にもなった酒井忠清時代の大手門跡だろうと考えられる場所で、見つかったのは大収穫だったという!✨
上にビルが建っていたことから結構破壊されている印象です。前橋城が描かれた古絵図のうち古い=「前橋城絵図帳」、その絵図の大手門を拡大した写真が上毛新聞社のHPにあるので是非参照願いたい。見つかった石の場所もマークしてありわかりやすい!
サイト→上毛新聞社2020.2.14
「栗石がでかい!」まず、これが私の第一印象(笑)矢印が見えるでしょうか? この高さの層にも裏込めがあることから、石はまだ上にも積まれていたことが推測されますね。これでは天パがややガチャガチャだし!
「どこ行っちゃったんですかね?」と質問したら、「堀の中に埋まっているのかも??」とのこと。なるほど!
この石は保存のため埋め戻すみたいだけど、いつかまた掘り出されることがあったら堀の中もぜひ探していただきたいです。未来のどこかで公開展示されることも考えて、良好な状態で保存しておくためには埋め戻すというのが大事なのですね(^^)
発掘調査のアルバイトを経験して、いなもとは破片からそれが何の破片かわかるようになりめちゃくちゃ楽しいわけですが! 見てください、カクランの中から見つけたー!
「こここここ、これはいつの時代ですか?」と質問したところ、明治以降だろうとのこと。・・・明治かいッ!!!!! 破片で何のカケラかわかっても年代まではわかりません(笑)しかし、この磁器はなんとなく江戸時代の終わり頃でないかい? 19世紀でも良さそうな〜なんて想像。そしてもう一度質問。
いな「すみません、この磁器はもう少し前でも良さそうじゃないですか?」
文化財課の方「ひょっとしたらそうかもしれませんね」
うわ〜、私めんどくさいタイプの質問者になってる〜〜〜〜ごめんなさい!!!!!!!!!!!!
ということで、プロの方解明をお願いします。
車橋門と比較!
なになに…これも酒井忠清の時代ぞ?今回見つかった大手門の石垣と同じ時期だったんですかね。
見つかった石と似ているような印象があったんだけど、こうして写真で比べて見ると、似ているのか似ていないのか全然わからへん(困)
なんだか木々が生えて見にくかったり、板材が石によりかかっていたりして非常にもったいなかった。前橋城は、いい遺構が残っている。もっと自信を持って全面に推していって欲しいと感じました。酒井氏時代の大手門跡の石垣、そのうち保存展示されるといいですね!
主催者の前橋市教育委員会文化財保護課のみなさま、関係者のみなさま。雨の中、開催してくださりありがとうございました。
※今日の様子はSNSやブログで公開しても良いと許可をいただき書かせていただいています。
前橋城
所在地:群馬県前橋市大手町1丁目1、ほか
遺構:土塁、石垣(門跡)