これから出てくる赤塚城の写真は、春夏秋冬・カメラも異なる写真ですヾ(・ε・。)


郷土資料館でGETしたこちらの史料

白子原合戦の時を想像したイラストだそうですしかも香川元太郎先生監修は、西ケ谷先生!和光と成増の間にあるチョロチョロとした川が白子川です。

このイラストだと載っておりませんが 下の川は戸田と板橋の境目の荒川

縄張図は、西股総生先生と萩原さちこさん著の『山城へGO!』(2014、学研パブリッシング)を参考に

縄張り図は掲載できませんが、おすすめの本です
 
現在と、昭和30年の古写真を比べてみましょう!
この古写真は、郷土資料館内にもあるのですが、梅祭りの時には一の曲輪にボードで展示されていました。撮影・掲載許可済。

二の曲輪と浄蓮寺の間の堀

天然の空堀ですね。この道を辿っていくと道祖神さんがありました!

昔からある道だという証だそうです。ここは、旧鎌倉街道。

三の曲輪と横堀
民家の畑(最近買い取られたそう)になっていて立ち入りは禁止ですが、隙間からのぞきこみ…ww
横堀が残っていますもしかしたら畑を作る過程でいらない土をはじっこに寄せた可能性もありますが、横堀を設けるならば必要な場所だと思います

二の曲輪と三の曲輪の間の曲輪

この曲輪には名前がありませんが、馬出しに見えてしまう

少し進むと【二の曲輪の切岸】が堪能できます!

名残が見られる道がいいねε=ヾ(*・∀・)/

ニの曲輪

梅がいっぱい植えられておりました!!!3月最初の土日には赤塚梅まつりも行なわれますのこんな感じになる!

二の曲輪から一の曲輪へ行くと…

一の曲輪と二の曲輪の間の空堀
削られてしまっているけど、空堀があったそうです。
さて、国土地理院のサイトで昔の上空写真を確認してみましょ!
二の曲輪側には空堀跡っぽい場所もうっすら残っています

一の曲輪と赤塚城碑
中心郭広いっ!一の曲輪、池(水堀跡)と反対にあたる西側には、竪堀が三本走っています
一の曲輪の竪堀
まぁ、薮がすごいね2本はフェンス下にあるから見にくいかな。冬はよく見えます!

一の曲輪とニの曲輪の北側、現在は池のある公園になっている場所にはかつて水堀がありました。
池まで来たら郷土資料館もいっちゃいましょ!
お祭りの日には色々なイベントをやっていますよ୧꒰*´꒳`*꒱૭✧
ちなみに、最近発売された「武蔵千葉氏」の家紋いり栴檀ストラップが購入できるのもここだけw
赤塚城に来たら足を伸ばして出城?出郭まで
【浄蓮寺】
地元民は年末年始はここに来ますすす〜!
「赤塚城二の丸」って立派な石碑があるんだけど、城址公園全体が一の曲輪なわけではないので、出城か出郭として考えていいと思います。日本で3番目に大きな大仏、「東京大仏」!
赤塚城の近くには滝があって、清い水が流れているの。だから、蕎麦作りに向いている環境で、「大仏蕎麦」がご当地グルメになっています!
さて、国土地理院ではこんな画像も見られます。

中央左にあるボコボコが赤塚城。そして、右手にはもう一つの城(砦?)、「沖山の塁」が見えています!みごとな舌状台地ですね。

沖山の塁▶︎ジャンプ


赤塚城

住所…東京都板橋区赤塚五丁目
遺構…土塁、空堀、(竪堀、横堀)
メモ…
鎌倉時代。
「赤塚」の地名が初見されたのは元弘3年(1333)頃。赤塚郷は北条得宗家の領有地だったそうです。永徳元年(1381)には京都の鹿王院へと赤塚郷を寄進しています。
室町時代。
康正2年(1456)になると下総千葉氏の内紛から千葉実胤、自胤兄弟が入部。赤塚郷は兵糧料地として千葉氏が預かります。武蔵千葉氏!
戦国期。
小田原北条氏の作成した『小田原衆所領役帳』には千葉氏の所領と記載があったそうです。

(参考『四葉地区遺跡』2001,板橋区立郷土資料館)


『山城へGO!』によると赤塚城は、「1546年に千葉自胤が築城。千葉氏は下総の名門だったが、足利成氏と上杉氏との抗争・享徳の乱に巻き込まれ、馬加康胤によって下総を追われ太田道灌を頼って武蔵国へと逃れた。やがて後北条氏の傘下に入って赤塚城を築いたとされるが、廃城の時期は不明」とのこと。

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